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過去は振り返らない方がカッコいいけど確認作業はちゃんとしたい

淡々と日々を過ごし、小気味よいリズムで失敗を重ねるうちに、自分なりのルールというか戒律のようなものが増えていく。

たとえば

「服は試着してから購入する」とか

「あらゆる組織の勧誘に対し”やんわり”は通用しない事を心せよ」とか

「夜中〜未明に、人に宛てて書いた文章は、どんな媒体であれ、どんな気分であれ、そのまま人に送るな。仮にその日の朝に世界が終わるとしても、だ」とか

挙げていけばキリがない。

こないだ家に二人組の勧誘が来て

「あなたが生きていく上で大切にしている教え、教義などはありますか?どんな宗教でも構いませんが」

と訊くので

「やらかしてきた失敗です」

と答えた瞬間に若干笑ってた二人組の二人目よ。おい、君もロックスターになれる。

 

その自分ルールにほぼ共通するのが「確認すること・させること」である。何かをしたら一度主観から離れ、客観で確認し、間違いを修正する。世に成功哲学はあふれているが、目先の成功よりもまずは自分自身を省みて、同じ失敗を繰り返さない、周りの人達に悪い意味で同じ思いをさせない事が肝要であると俺は思う。

 

前置きが長くなったが、本題に移ろう。

俺は怒っている。いかっている。

うんこが勝手に流れる機能に怒っている。

読んで字の如くである。なぜ勝手に流すのだろう?

もちろん理屈は分かっている。「流し忘れによる不衛生が無くなって良い」という事くらい分かってるし、「流し忘れ」にカテゴライズされる思い出は俺にもたくさんある。だがその思い出のうち、いくつかの便器はなんと、勝手に流れる機能付きだったのだ。これは嘘ではない。信じていただきたい。

これは「身体が透明になる薬を飲んで街へ繰り出したが透明になっていなかった」レベルの本末転倒ぶりで、まぁクソみたいな話題かもしれないが自分としては軽視できない案件である。

しかし、

この時点での俺の思考は主観に基づいた、ほとんど感情的なものである。冷静に考えてみよう。

1 この勝手に流れる機能のおかげで、綺麗になっている便器に当たる確率は飛躍的に向上しているかもしれない。かもしれない、というのは後から使用する俺にはそれが自主的な洗浄か自動的な洗浄かの判別が付かないことによる。

2 流されるうんことしては「なんだっていいよ」という事かもしれない。かもしれない、というのはそれが物言わぬ排泄物であることによる。

3 この際「勝手に流れる機能は日本のトイレの衛生面を、国民のハッピネスを向上させた」ということで構わない。たとえそれが意識的に操作された都合のいい統計だとしても、俺はそれに反発しない。ビデに誓ってしない。

 

それでも俺は怒っている。はっきり言おう。「確認できない」からだ。

冒頭で述べたように俺は確認をすることが自身の成長のはじまりだと信じている。一筆書き、一発勝負、と言えば聞こえはいいが、その記録を確認し軌道修正し、次につなげる意識が無ければ結局はその場限りのお楽しみ、ただの消費、やり逃げにすぎない。そういう人が居ても良いが、俺はどういったうんこが出たのかを確認したい側の人間だ。

確認といっても、重箱の隅をつつくような真似はしない。かといってチラ見かといえばそうでもない。たとえるなら注文したチョコレートパフェが来て「あ、いいね。コーンフレークに頼りきってない感じに好感が持てますね。はい、いただきます」という程度だ。これでもう完全に理解して頂けたかと思う。

 

そもそも、「忘れる」ということは「対象と真剣に向き合ってこなかった結果」ではないだろうか。彼ら(彼女ら)はヒトの言葉こそ話さないが、素直であり正直であり雄弁なのだ。内臓の健康から精神の乱れ、職歴に至るまで、彼らは何でも知っている。だから耳を傾けよう。耳を傾けても何も聴こえないよ。耳を傾けたって何もきこえないよー。何の為に生きてるんだよー俺は。

まぁそういった悩みの答えも、うんこらは教えてくれる。そんな素晴らしい存在との交流を阻まれるというのは、さしずめ愛し合う二人がひとつの時代によって引き裂かれるような、そんな思いだ。

さらに悲しいことに、我々は確認はおろか「流す」という行為すら奪われているのである。

どんなひどい文章を書こうが最後にはenterキーを押す。ガンマンは最後に銃口を吹く。さっきからたとえが若干いけ好かないかもしれないが黙って聞いてほしい。レバーを傾ける、またはセンサーに手をかざす、「特定の動きで物事にケリをつける」という行為によって我々は次のステップへホップしてジャンプするのだ。いつまでも便所の気分を引きずっていてもしょうがない。切り替えが肝心だ。「いってらっしゃい」「ありがとう」「元気でね」「愛を」などと一言添えて送り出せば、自分の気持ちも前向きになるだろう。自分の意思で水を流すことがどれだけ重要か、お分り頂けただろうか。

余談だが、メーカーによってはセンサの設定がシビアなのか、少しでも姿勢が乱れようものならジョボゴゥォザァーーーース!!!!紙を取ろうとしただけでジョボゴゥォザァーーーース!!!!動いてないけど何となくジョボゴゥォザァーーーース!!!!みたいな、一度につき三度も四度も流れるやんちゃなものも存在する。多機能トイレならぬ滝のおトイレである。大自然に抱かれ排便するような爽快感が味わえるが、騙されてはいけない、ここはショッピングモールだ。

そろそろまとめよう。

自動洗浄機能によって、都会のトイレの衛生は良くなったかもしれない。だがそれと引き換えに我々は人間としての尊厳を、自分が自分であるという不確かだが捨てがたいあの感覚を、物言わぬ自然から学びを得る謙虚な姿勢を、水に流されてしまってはいないか。

無論、メーカーは利便性を追求しているに過ぎない。そこに陰謀論を絡めたり、機械が人間を支配するといった終末論で茶を濁そうとは思わない。

かつてアナログとデジタルが相反するものだと思っていたが、最近では主体(手動)的なものと受動(自動)的なものの二極を実感する場面が多く、そこではアナログもデジタルもあらゆる思想も立場も混在している。興味深い反面、ふとした瞬間ぞっとする。

受動的なものは向こうから勝手にやって来るが、主体性を持って生きていくには自分の意思の力を「大」の側に傾ける必要がある。

 

たまに遭遇する、いつまで経っても個室から出てこない人というのは、中でケータイをいじってるのではなく「流れるのをひたすら待っている」のではないか。

「それ手動ですよぉおおおーーーーーー!!!!!」と叫べばきっと出てきてくれるかもしれない(何らかの危機を感じて)。

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