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えずくじゃないか

嫌になるほど暑い日が続くが、自分の中で「ものすごく嫌だったこと」を遡っていくと最初に思い当たるのは「残さずぜんぶ食べるまで自由になれない」という記憶だ。

今でこそ、ほとんどの食品を食べられる(あるいは我慢できる)ようになったが、子供の頃から「食べたくないもの」が多かった。給食の時間にそれを残しているのを見つけると先生たちは「ぜんぶ食べるまで遊べません」と、文字だけ見ると独白しているかのような、教師特有の謎文法で冷たく言い放ち、他のみんなが机を片付け遊びに行ってしまうなか、ひとり残って「食べたくないもの」と格闘するのはとてもつらかった。

あえて「食べたくないもの」と書くのは、それらは好き嫌いやアレルギー、食わず嫌いではないからで、必ず一度食べ、もだえ、えずき、目を潤ませる、といった高水準の不快さをすでに味わっていることによる。好きも嫌いもない。とにかく俺は、それを食べたくない。

もうあまり見かけないが「みかんサラダ」というものがあった。缶詰のみかんをきゅうりやマカロニと一緒にマヨネーズで和えたものだ。これがもう不愉快極まりない代物で(大好きな方ごめんなさい)、まずデザートなのかサラダなのか判別がつかないし、主役がみかんである必要は全くないし、「あえて、和えてみました」的なスベリ芸を披露している可能性もあながち否定できず、甘みと酸味と塩気の複雑なアンサンブルを齢四つの男児に理解させるのは正直かなり無理がある。レベルが高すぎる。

半分に切ったバナナの日はすごく嬉しかった。うわあい半分に切っただけのバナナだあい、といった具合に。これは俺が単純な頭脳と残念な味覚を持ちあわせていたという事実を示しており、当時食べられなかったものの主な特徴は「酸味」「発酵」「生食」など。つまり大人と書いて複雑、なものを味わう能力が備わっていなかったと考えられる。

とりわけ、発酵食品は難しかった。しばらくの間、どう受け止めていいのか分からず泣いてばかりいた。家族が朝食に納豆をかき込む姿を見て、俺はきっと違う家の子なのだと思った。刺身や寿司がうまいと言うのは何かの隠語、暗喩ではないかと疑った。みかんサラダを平らげる友達を見たとき「才能の壁」という概念を知った。

食べ物に関する同族意識は根深いように思う。かつて「甘くない卵焼きは、卵焼きじゃねえよ」の一言で友人関係に大きな亀裂が生じた事がある(誰が誰に向けたセリフなのかは伏せる)。今でも卵の食べ方を巡って世界中で争いが絶えないと聞く。同じものを食べ、共に美味しいと感じることで仲が深まる(またはそんな気がする)のは、イルカが超音波を操るのと同じように特殊な能力だと俺は思う。

一人暮らしを始めた頃、このままではいけない、と思い立ち一念発起。納豆を購入。初めて買ったノートパソコンのようにおっかなびっくり開封し、神妙な面持ちで百回混ぜ、食べてみた。

するとどうだろう。えずくじゃないか。何も変わってないじゃないか。

いや、そんなはずはない。と何度もトライするが一口食べるごとに友達が校庭へ飛び出していく気がした。悲しくてやりきれない。そしてこの時気づいたのだが(本当に)納豆は3パックもある。全部燃やしてやろうかと思った。でも、と思い直す。それじゃ同じことの繰り返しじゃないか。今までそうやって自分を正当化して色んなことから逃げてきたんじゃないのか。世の中の全てのことは受け入れられなくとも、いま目の前にある納豆を、そう納豆だけを、とりあえず受け入れてみようじゃないか。ザルを水で満たしたかったら、ザルを水の中へ放ればいい。俺 対 世界で考えるからこんなに苦しいんだ。俺は納豆で、みんな納豆なんだ。俺達は腐った大豆なんかじゃないんだ、いくぞ。

するとどうだろう。えずくじゃないか。さてはコピー&ペーストですね。

 

今では納豆も寿司も大好物だ。みかんサラダだって食べちゃうし、ギターを弾きながら歌いつつ尻を振ることもできる。

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