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並行世界のカレンダー・ガール

前回は「凍らせることで腐敗を止めたい、ゴミみたいな奴の話」だった。これは別に凍った物の時間が止まっている訳ではない。

なぜこんな分かりきった事をわざわざ書くのかというと、俺は「冷凍で時間が止まってたらいいなぁ」と思うからである。時間を止めたい願望はない。止まらないからこそ良いのだと考えているが、そういう仕組みがあったら面白いなぁと思う。映画スターウォーズシリーズで、実験的に冷凍されたハン・ソロが回をまたいで解凍され復活するが、彼が経験した時間は、その他非冷凍の登場人物たちと果たして本当に同じ量なのだろうか。もちろん物理学的には同じだろうが、何と言ってもフィクションである。解凍後、微妙に子供っぽい考え方をしていて周りに諭されがちとか、やたら単純な味付けを好むとか、そういう裏設定があってもいい。

ノンフィクションな我々が冷凍されることはまず無いが、時間の感じ方は人それぞれだ。「時は金なり」というが、時間はお金のように一気に使ったり、出すのを渋ったりを調節出来ない。常に一定の量が使われるので、内容の濃度を変える工夫をするしかない。ある意味サブスクリプション的な仕組みかもしれない。

「時間は万人に平等」というのは、無菌室で行われる実験結果と同じようなもので、合っているし間違っているように思う。「時間は現場で流れてるんだ!!」という刑事が居てもいい。

我が家のカレンダーには旧暦の表記がついていて、これが面白い。旧暦が面白くて買ったのでべつに新しい発見ではない。

8月19日は、旧暦では7月9日。

作年は閏月(うるうづき)が5月にあり、通常の5月のあと閏5月があった。俺の5月病はずいぶん長引いた。これは現在の閏年2月が1日分増えるのと同じ理屈で、旧暦は新暦に比べズレが大きい為、月単位で調整する必要があるからだ。旧暦は「1年が13ヶ月」の年が、19年に7回の頻度で存在する。

 

旧暦の何が面白いのかといえば、その最期が面白い。つまり新暦(現在のカレンダー表記)の誕生理由。

まだ旧暦である明治5年12月2日の翌日、新暦として明治6年1月1日がスタート。

この明治5年はまさに閏月のあった年で、1年が13ヶ月。当時深刻な財政難だった明治政府は「役人の給与をひと月分支払わなくて済むメリット」を見出し、改暦を11月に発表、12月に施行。

俺はこれを知った時「人生捨てたもんじゃ無いな」とすら思った。漫画じゃん。こんな無茶苦茶な事あっていいのか。いいのだ。

歴史と化学は時を経て間違いが認められるケースが多い。というか、それこそが歴史や化学の唯一たしかな要素なので、この改暦事変が本当かどうかはわからない。でも俺はそうであってほしい。団地のお母さんの節約術みたいで、よろしいんじゃないか。

暦に関しては、二十四節気(にじゅうしせっき)というものもある。春分とか啓蟄とか大寒とか、1年を24の季節に分けた名称だ。古代中国で誕生し日本に伝来したものらしい。だが今年8月7日が死ぬほど暑い立秋だったように、体感としての季節はズレている。およそひと月くらいのズレを感じたので、俺は旧暦由来のものと踏んでいたが、調べたら間違いだった。色んな理由があるが「日本に比べて寒冷な中国大陸の気候で計算されたから」というものが一番しっくりきた。

新暦があり、旧暦があり、二十四節気がある。混乱してくる。さらに二十四節気における、日本の気候との季節感のズレを補う、雑節(ざっせつ)という日本ならではのものもあって、土用とか節分がそれにあたる。さらにさらに欧米では新暦としてのグレゴリオ暦、旧暦にあたるユリウス暦、最も古くは紀元前2900年頃の古代エジプト暦がある。アジアと西洋、その地域ごと、また月を基準とするか太陽を基準とするかで算出方法は異なる。混乱は増すばかりだ。もちろん俺はわざとごちゃ混ぜにして書いている。分かりやすく丁寧な解説をするサイトが沢山あるので、興味のある方は覗いてみてほしい。

我々は本当に同じ時を生きているのだろうか。

未来を語る人も、過去の栄光にすがる人も、いまを懸命に生きる人もいる。それぞれに新暦のクリスマス、旧暦の12月25日があり、新暦の1月1日、旧暦の正月が待っている。心ここに在らずの女の子も、そこに居るテイの重役も、ミッキーマウスも、全ては同時進行で、本人は一人のはずなのにバラバラに存在する。

俺は占いを信じない(エンタメとして眺めている)が、新暦と旧暦、どちらの誕生日で占うのが正しいんだろう。明治から続いた時の果てに自分が生まれたのだから、旧暦であってもおかしくない。ユリウス暦では俺は何座で、古代エジプト暦ではいつが強運の月なのか。最低でもその占いが発明(?)された時点での暦を参考にし、毎年統計を取り、データを改編するべきだろう。「1年に1度、歳をとる」前提から考えるのも面白いかもしれない。

現実世界のさまざまな事象に、もっともらしい名前が付いており、それ在りきで行動するが、フィクションでないという証拠はどこにも無い。化学的な証明は数年後に覆るかもしれない。むしろ名前を付けるという創作、その虚構を信じ合うという非科学的な行為の上に社会が成り立っているとすら思う。

名前が付いたものに囲まれていると時間が薄くなる。つまり、知っているものに囲まれて暮らしていると時間の密度は低い。と感じる。薄いから低いからダメだとは全く思わない。空間のどこかに謎が含まれることで、時間がその密度を保っている気がする。

だから冷凍された物の時間が、止まっていてもいい。

というのは強引だし、オチにしても滅茶苦茶だし、正直どっちでもいい。

2回にわたる冷凍トークで、納涼させていただきました。

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