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神様もラクじゃない

現実社会における、主に酒の席でのタブー、避けた方がよい話題として「野球・政治・宗教」がある。

対立を招きやすいから、というのがその理由だが、言葉の更新がある時代から止まっている感が否めない。今だったらサッカーも漫画もアニメもゲームも、不用意に「好きなんですよね〜」などと口にすれば「ほほう、お手並み拝見といこうか」という態度に出る輩も少なくない。それが面倒くさいので話したくない、という人も居るのではないか。こと、好きなものを語り合う場での「酒でも飲みながらダラダラ喋っているのが楽しいな」といった従来のスタンスが徐々に鋭角化し、「同人として尊敬or Die」といった殺伐思想を持つに至った人も少なくない。「居酒屋離れ」と聞くと、酒が飲めないからではなく間が持たないからという理由が隠れているんじゃないかと俺は邪推してしまう。

 

「ハロー!パックマン」というゲームをご存知だろうか。

1994年にナムコから発売されたスーパーファミコン用ゲームソフトである。

俺はスーパーファミコン世代で、たくさんのソフトに思い出があるが「ハロー!パックマン」は、とりわけ強く記憶に残っているゲームだ。

突然ゲームの話を始めてしまったが、これがもし酒の席なら一瞬でかき消されてしまうような話題、という意味を込めている。ここなら落ち着いて話ができる。「ハードがスーファミ」「スーファミでパックマン」「世代」この、対立を招きやすい言葉の地雷原をリアルで走破するのは困難を極める。現実世界では「俺のチャーハンがいちばん旨い」とばかりに「俺の〇〇の方が」で会話を寸断する酔っ払いばかりなので、俺は酒の席で「ハロー!パックマン」の話をしたことがない。

いや、酒の席以外でもしていないはずだ。なぜなら「ものすごくモヤモヤするゲーム」だからだ。

まず、パックマンは従来のドットイーターとしての、あの完成された記号的容姿を完全に放棄し、手と足が生え、豊かな表情と家庭(‼︎‼︎)を持つ、アメリカンスタイルな父親として登場する。当然のように喋る。一人称は「ぼく」で、プレイヤーの事を「きみ」と呼ぶ。そしてやはり目の醒めるようなイエローボディ。まるで黄身。基本的に奥さんから言われた「おつかい」をこなしていくゲームである。

プレイヤーはパックマンを操作できない。すべてはパックマンのご機嫌次第で進行する。いいかい俺は冗談を言ってるんじゃないんだぜ。

説明すると、プレイヤーは「パチンコ(Yの形のした球を飛ばす道具)」と「上下左右の方向指示(もとい、ただの注意喚起)」が使える。パチンコで何かを撃って注意喚起したり、方向指示して注意喚起したりできる。

いきなりまとめてしまうが、このゲームは

「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」ことを、

つまり自分だけではない、何もかもが思い通りにはならない、人生そのものを学ぶゲームなのだ。

パックマンは勝手に行動する。そのまま野放しにしておくと近所の犬に吠えたてられ、全力疾走で逃げ回った挙句、隣人が絶好のタイミングで開けたドアに激突して死ぬ。

また、他人の通行に厳しい牧場主の目の前を、氏が昼寝中だからという理由で勝手に通行し、見つかり、死ぬほど説教を受けて落ち込み、死ぬ。

パックマンは漢字二文字で表すと「躁鬱」、五文字ならば「情緒不安定」なので、こちらが細心の注意を払って誘導し、先手を打って障害を排除していく必要がある。あくまでも彼に悪気はなく、自分の正義に基づいて行動している。そこの所の理解を持たず、ゲーム機本体を殴るといった、暴力に解決を見出す行為は将来の自分の為にもやめた方が得策であろう。

制作サイドの努力を感じられるのが、アニメーションの多彩さである。パックマンの機嫌は実にさまざまで、喜怒哀楽はもちろん、躁、鬱、傲慢、怯え、穏やかな笑顔、明らかな不機嫌、声をかけるのが憚られるほどの悲壮、ブチギレ、牛乳でラリっている、何もかも嫌になり精神崩壊、など、数え切れないほどある。そしてその機嫌こそが、ゲームの進行にとって重要な要素なのだ。

穴や崖があり、向こう側へジャンプしなければいけない時。上機嫌のパックマンはこれを鮮やかにジャンプ、どや顔で出来る奴アピール。非常に腹立たしい。

だが落ち込んでる時は「、、、ぼくみたいなやつにそんなことできるわけないじゃないですか」みたいな顔で見つめてくる。こちらとしては何も言えない。同じ場所で同じ条件なのに出来ることが全く違う。ちなみに機嫌が良すぎて調子に乗っている時は飛んだ先のトラップにかかって死ぬ。

これは我々人間にも共通する事かもしれない。いや、当時の俺は気がつかなかったが、我々と同じではないか。

同じ物事を、あるときは「善」と捉え喜び、あるときは「悪」と捉えはげしく落ち込む。行ってはいけない方向へフラフラと歩いて行き、ひどい目に遭う。ヒントは沢山あったはずなのに。偶然落ちていたリンゴを見つけ「ツイテルわぁ」と喜ぶにとどまらず、慢心し横柄になる。そのリンゴはプレイヤーがパチンコで撃ち落としたものだ。つまり「ハロー!パックマン」は、プレイヤーが「全能でない神の視点」を体験することの出来るゲームなのだ。そしてもし現実世界に神がいるとしたら、我々はコントローラをぶん投げられるくらい身勝手な生きものだ。プレイヤーに、もう少しラクをさせてあげてもいいのではないか。

 

「現実世界が実は仮想現実で、我々は液体の中で浮かんで電気信号を受けているだけの脳」という話を聞いたことがあるが、だから何だと言うのだろう。ビーカーの中に浮かぶ脳みそを想像して虚無感に浸っていても、そのゲームは続くのだ。パックマンがナムコの存在を知ったところで、彼のするべき事は何も変わらないだろう。はっきり言って彼はド級の馬鹿だが、目いっぱい人生を楽しんでいる。とても素敵だと思う。とはいえ彼は全編を通して学習というものを一切しないので手放しに褒める事は出来ない(危ない所だった)。

我々人間は、自分や他人の失敗から学習し、想像する事が出来る。リセットは出来ないが、いつでも、何度でも自分の意思でスタート出来る。

俺は昨日も今日も、崖を目の前にしたパックマンであり、水辺まで来た馬なのかもしれない。

 

 

そしてこれが、プレイ動画。

日本の動画は真面目にクリアしすぎで面白くなかったので海外のものを。

英題はPac Man 2である。失敗プレイ集。これぞ死亡遊戯。

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