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平成元年生まれだけど、質問、、、無しですよね、わかります

多くの少年少女の例に漏れず、俺も夏休みの宿題をちょうど今ぐらいに慌ててやっていた。が、現在は何の宿題も無いしバンドをやってる身なので、夏の終わりらしく8月31日にブログを更新してみる。

元号「平成」が終了するとあって、今年に入ってより一層、平成に関する意見が彼方此方でみられるようになった。「平成を象徴するもの」はこんなにあったのかと驚く。平成の日々はまだまだ残っているが、個人的には「もういいわ」という気分である。平成元年生まれの俺でなくとも「何を今さら」といったスタンスの人は多いと思われる。

 

これまでの経験を踏まえ喩えるなら「平成生まれである事」は「優秀で人気者の兄と比較され続ける事」に近かった。映画「ガタカ」のような。これは人に限らず、製品や文化などさまざまな事に言える。「いやぁ、あのお兄さんは立派だったよ」と遠い目をする大人たちが脇を固めているのもそっくりである。しかし、誰も悪くはない。立派な人が居て、立派なものを立派と称す人が居て、後に生まれた人が居る。

後に生まれた者は、先に生まれた者から学び、同じ過ちを繰り返さないように工夫する。その工夫は、前の世代の「過ち」を元に生成されるため、過ちという影があることで対に存在できた「成果」を得ることは出来ない。「今時の若者はおとなしい、勢いがない」というのは「やかましくて勢いのあった時代の成果」から生じた「過ち」に学び、工夫を凝らした結果、と考える。それが電子マネーのシステムでも、互いを監視し炎上させる風潮であっても、先代の過ちから工夫した上での、新しい成果である。そして、そこからまた見えてくる過ちに、次の世代が新たな工夫を凝らすだろう。

それでも、歴史は繰り返される。これだけ身をもって学んだ平成生まれも、「いやぁ俺ら散々な言われようだったからね〜、いいなぁ今の子は」と言ってしまうだろう。これは予言でも予想でもなく重力、と言っていい。完全に振り切るには特別な訓練が必要だ。しかし次の世代の為にもそれは、完全ではなくとも、可能な限り避けたい。

自分なりに考えてみた。自分なりに考えると必ずこのテーマにぶつかるのだが、それは

「名前をつける事、言葉にする事の恐ろしさ、空しさ」である。「言葉にならない事のすばらしさ」と言ってもいい。ブログや歌詞を書く事で、名前が付かない事のすばらしさを、もっと解りたい。おそらく俺はこのテーマを一生追い続けるような気がする。

昭和、平成、と名前が付いていなければ避けられたはずの対立、名前が付いているからこそ生まれる結束力。言葉を過信してはいけない、言葉だけならどうとでも言える。でも言葉がなければ伝わらない事もある。言葉にする事でシラけ、感動し、嫌悪し、信頼する。ネットが発達し、個人が発する言葉は爆発的に増え、沢山の物事に名前が付き、解像度が上がるように、社会を形作っていく。

それこそ平成になり、ネットで匿名の書き込みが出来るようになった辺りから、「言葉で分かり合う事の難しさ」「言葉の上で争う事の空しさ」はどんどん加速し、それは実名になっても変わらず、世の中全体が抱えたその疲れは今ピークに達している。少なくとも俺はそう感じる。そして、その過ちを受け、新しい工夫として「関わらない」を選択する人に危機感を覚える。関わりあう事に、言葉が先立ちすぎているだけなのに。我々は言葉以外にも沢山の情報を交換出来る生き物だ。

 

歴史の重みがあるので難しそうだが、新しい元号は無しでいいのではないか。もう西暦で良いと思う。

西暦で並べたとき初めて、世代を超えた普遍的な価値に気づけるかもしれない。

 

真面目に書いてしまい、どうも軽快さに欠け(ものすごく時間が掛かった)、逆に宿題を溜め込んでしまった感が否めないが、このへんで。

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