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I’m so 怠惰

怠惰だ。

あまりにも怠惰なのでもう一度。

俺は怠惰。

 

8月24日に、ゲームについてのブログを書いたのだが、その際参考として見たYoutube動画から、俺の怠けは始まった。まぁ良くある話だと思うが。

まず、御目当ての「ハローパックマン」の失敗プレイ動画を見る。Part5まで全部見た。そして上手い人のプレイ動画を見る。あれだけの文字数を使って熱弁したが俺は「ハローパックマン」をクリアしたことがない。最終ステージの、ラスボス手前の扉の開けかたが小学生にわかるわけ、、いけない。話が逸れる。

そしてTASさんに出会う。TASさんの事を知っている人は俺の怠惰を理解してくれると思う。

「TASさん」と擬人化されているテイで、このまま話を進められるほどファンタジックな文才は無いので普通に説明すると、

TASとはTool-Assisted-Speedrun(またはSuperplay)の略で、エミュレータというツールを使ってゲームの最速プレイ、またはスーパープレイを追求するものである。ソフトそのものを改造するのではなく、あくまでも理論上(人間の動作を超えていても)可能な入力で、最速を追求する行為を示す、と俺は認識する。1秒に60コマあるフレーム上で、どんな入力を(どこへ向き、何を準備し、どのルートを捨てるか)すれば最速になるのか。任意の地点でこまめにセーブ(追記)こそできるが、マッチ棒で城を建てるような果てしない作業である。

もちろん人間によるリアルなプレイも素晴らしい。プロゲーマーによるそれは、さながらアスリートの世界大会であり、知性と反射神経、経験と精神性がその場ですべて問われるものだ。そこには熱狂と興奮がある。プロゲーマーという職業があり、多くのスターが生まれる所以である。

その点TASはアスリートというよりは「研究」に近く、最適な入力の為に、場合によっては何百万回も追記し直す、新しいルートを見つけたが為にまた一からやり直す。その飽くなき探究心に、俺は静かな熱狂と興奮を憶えるのである。

TASプレイ動画には、しばしば「そういうゲームじゃないから!」というツッコミが入る。普通に見ているとあまりにもあっけなく進んでいくので、そう思うのも仕方ないだろう。だが俺は「TASさんはそういう奴じゃないから!」と弁護したい。まぁ皆分かってツッコんでるだけなのだが。件のブログで俺はゲームを人生に喩えたが、「最適な動作が最適な人生を作るのではない」事を知るのにもTASはうってつけと言える。探求する姿勢が美しいのであって、結果はその付属物にすぎない。

という真面目な弁解が必要なくらいひどい日々を送っていて、俺が熱狂したスーファミからプレステまでのハードを中心としたあらゆるTASプレイ動画を見漁った挙句、「RPG聖剣伝説3を3時間24分でクリア」という動画を丸々見た後に「このままじゃ俺ダメかもしれない」と鏡に映る、あごを中心とした凄まじい肌荒れを認めた段階でようやく改心、現在笑顔でブログを書いている次第である。怠惰さを競う趣味はないが、怠惰だろう?

TAS動画は、それが流行り始めた当時のコメントが沢山付いており、これがまた実に平和で、現在のネットの殺伐さを思うと尚更素敵である。中にはTASを本物のゲーマーと思っている人も居て、全体的にほんわかしたムードだ。

観測の結果(見漁ったのでね)分かるのは「俺もこのくらいは普通に出来た」というコメントが出始めた辺りから雰囲気が怪しくなり、それを諌める人たちの言葉なり方向性が「無駄なコメントは許さん」となった時点でほぼ、現在の雰囲気となった。

これを分析すると、ひとつの自己主張に対し、ひとつの仲間意識が結合すれば、それは良い意味での馴れ合いとなり、摩擦は起きない。これは同人の基礎構造と言えるかもしれない。俺は匿名書き込みをしない主義なので体験こそしていないが、それでバランスが取れていた時代が存在したようだ。

だが、ひとつの自己主張に対し、その主張への批判 は結合せず、摩擦を生む。また摩擦を避けてスルーを続ける事で殺伐とした雰囲気が醸成される。TASに限らずコメントなんて別に最適でなくても良いと俺は思うのだが、それを許さない人が増えた。自分語りは許されない、情報や文字の誤りも許されない、同人としての愛情が古参に対しても確かに感じられなければならない。なんて高度な心理戦だろう、と感心している場合ではないか。

個人的にはこういった狭量さが端を発し、若者がついて行けず、既存の同人文化は縮小していくという予想なのだが、いかがだろう。しかし、それは好きなものを「こっそり好きでいる」という、見えない好意を蘇らせることに繋がる。蘇らせるという言葉をわざわざ使うほど、現代ではあらゆる好意が可視化されるようになった、と感じている。まるで「可視化されていなければならない」みたいだ。公で証明できる好意も立派だが、好意とは本来もっと分かりにくく、矛盾したものではないだろうか。そして人前で好きだと言いづらい「好き」には、すばらしい価値があると思う。

 

俺はそういう好意を人に向けるし、そういう好意の存在を信じて生きている。怠惰に。

 

こんなサムネイルの動画を、誰がフルで見るんだ、と。

 

こっちは人間によるプレイ。人間の限界。

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