Skip to content →

ワッショイ 2.0

少しずつ秋めいてきた。今年も残暑が厳しそうだが、あまり残暑に気を取られているとあっという間に年末になってしまう。これは冗談ではない。夏から年末にかけては知らぬ間に圧縮される傾向がある。残暑だけでなく、「今年もあと3ヶ月切ったぜ」などという会話にも注意しなくてはいけない。これは「あなたはコップに入った水を”もうこれだけしかない”と言いますか、”まだこんなにある”と言い以下略」的なダルい説教などではなく、「俺と秋の邪魔をするな」という話である。秋に浸る時間を他の話題でさらうなという意味だ。過ぎた事と先の予定、それを憂う気持ちが今を脅かす。俺はいま目の前にある秋が好きだ。

秋といえば祭りの季節、と言いたいが特別そういうわけでもなく、日本は一年中祭りばかりしている。国内ほとんどの祭りは農耕民族としての祈りを目的としているそうだが、そういう意味では祈りまくりの国である。種を植えちゃあ祈り、虫を避けたきゃあ祈り、雨降って欲しきゃあ祈っている。不採用通知としてのお祈りメールもさもありなん、である。似たような言葉に「願い」があるが、その違いを明確に答えるのは意外と難しい。「祈願」という言葉もある。「願いは数えやすいが祈りは数えにくい」というのが今考えた個人的見解である。

そんな祈りが込められた祭りでは、各所で神輿(みこし)が担がれる。神輿にはその土地の神様が乗っていて、それを人間が担いで周ることによって「僕たちだってやればできるッスよ!」的なアピールをしているのだ、と俺はみている。ちゃんと説明しないのは、だいたい「諸説あります」だからだ。地域によっては神輿をグワングワン揺さぶったり激しくぶつけ合ったりしているが、乗り込んでいる神様は大丈夫なのだろうか。罰ゲームに近いシチュエーションだ。近年は神輿の担ぎ手が減っているらしい。これは現代人の価値観、ライフスタイルから論じるべき問題なのかもしれないが、俺としては、神様が「もうマジで酔うからあれやめてほしい」と神の力を発揮、無意識下の世論を操作した結果なのではないか、と考えている。

こないだ下北沢に行った時も祭りがあり、男達が「ワッショイ」ピッピッ「ワッショイ」ピッピッ、、、と神輿を担いでいた。この掛け声はなぜ「わっしょい」なのだろうか。改めて考えるに、「わっしょい」とは謎の言葉である。語感的に近い「がっしょん」とか「エッシャー」ではダメなのか。また、意味と現代性を重視して「嘘だ」とか「嫌だ」に変えた場合はとんでもない祈りが届いて歴史が変わってしまうかもしれない。だが音頭のリズムとお祭りムードで心の叫びを吐き出すと考えれば、福利厚生として中々よろしいのではないか。「嘘だ」ピッピッ「嫌だ」ピッピッ「何故だ」ピッピッ「嫌だ」ピッピッ「やめろ」ピッピッ「嘘だ」ピッピッ「ワッショイ」ピッピッ「ワッショイ」ピッピッ、、、。

何やら気まずいので意味を調べてみると「わっしょい」とは「和、を背負(しょ)う」からきているようだ。この流れで聞くとなんだか重い。背負いたくねえ。和を背負うのが嫌で村を出た人とか普通に居そうだ。「わっしょえ」だと命令、「わっしょう?」で勧誘である。イエスキリストの場合は十字架(cross)なので「くろっしょい」か。

そういえば前読んだ本に、「和」という字の元である「倭」の本来の意味は「なよなよして女々しいこと」だと書いてあり、たいへん驚いた。勝手に猛々しい男のイメージでいたが、ひょろひょろの文系のようだ。それが本当ならば和を背負うのもそんなにツラくはなさそうである。そもそも祭りとは祈りなのだから、そんなにヘヴィな訳がない。力で黙らせるのではなく、時に柔和に時にしなやかに、柳のような身のこなしで日本人は生きながらえてきた。和が重いからツラいからと決めつけず、「個」に生きる現代だからこそ、「倭」を背負って生きるのも悪くない、いや、きっといい事だ。

実際の神輿担ぐとめちゃくちゃ重いしツラいし危ないからマジ気をつけなよ。と、俺の心の中のギャルも申しております。

決して、安易な気持ちで担がないように。(重っ)

Published in Blog