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活字なんて読めなくていいという長文

人の話を聞く方である。基本的に聞いている方が楽しいのでそうしている。敢えてよく喋るようにしていた時期もあるが、多くの人は自分の話を聞いて欲しいようだ。

だいいち、うまく喋る事が出来ない。このブログをはじめ、文章ならば順序立てて話を伝える事が出来るが、喋りはそうもいかない。固有名詞が全然覚えられないのですぐに「なんかグワァーっと来て、ダァーン!でさ」とか「水たまりの端っこじゃあるまいし」とか、そう、例えも変だとよく言われるし、話している途中、聞き手の斜め後ろに視線を持っていく癖があるので、相手は「えっ?何か居るの?えっ」と何度も後ろを振り返ることになる。うんざりする(きっと相手が先に)。その点ギターを弾くという行為はたいへん理にかなっており(個人の感想です)、グワァーっと来てダァーン!と弾くのはもちろん、水たまりの端っこだろうがカスピ海の真ん中だろうが勝手に想像して弾けばいいし、視線も外れてる方が何だか超然としていてカッコイイのではないか。素晴らしいと思う。ギター、合ってる。あぁよかった。

文章も俺には合っていて、こういった本当にひどい話の持っていき方をした場合に、相手はサッと読むのをやめる事が出来る。何なら「うわ…」とか「きも…」といった呟きを添えつつ、ブラウザを閉じ、甘い物でもつまんで、いきおいよく唾を吐いて、普段見落としがちな都会の緑と触れ合ったりしながら、くだらないブログによって損なわれた機嫌を自分のペースで回復する事が出来る。そしてリアルに3週間後くらいにまた読むとかあるかもしれない。ないかもしれない。自由だ。

これが対面で話しているとなるともう大変で、何かの手違いで俺の話を聞かされる事になった相手としては、今すぐ帰りたいがいきなりその場を立ち去るほど無礼をはたらかれた訳でもないし、かといって決して安全とは言い切れない、心の酸素量が毎秒目減りしていくような状況なので、非常にストレスフルである。不自由だ。

はい。

 

年の瀬なので、今年観た中で一番グッときた映画を発表します。

「夕陽のギャングたち」Giù la testa (1971)

邦題に関してはそっとしておいてほしい。

英題は公開当初が
”Duck, You Sucker”で、興行が振るわずで”A Fistful of Dynamite”に変更されたらしい。俺は断然”Duck, You Sucker”が良いと思う。

で、どういう映画なのかと言うと、これが説明出来ない。

この映画に限らず、俺は映画の説明やレコメンドがめちゃくちゃ下手である。喋りはもちろん、文章であっても。世の中には映画レビューであらすじ解説している人や、おすすめの映画を紹介して聞く者を「その気」にさせる人が存在するが、本当にすごいと思う。俺はそういった人たちを心の底から尊敬している。喋りや文章が達者でなくとも、監督や俳優の名前がスラスラ出てきて「あの俳優の〇〇が出てたやつ、何だっけ」と言ってる人にも結構ビビる。

俺は映画が大好きで、一時期たしかに狂っていたクチであり、都内の名画座(2本立てを1000円ほどで観られる劇場)をハシゴしながら薄皮つぶあんぱんで生命を維持しつつ、帰ったら帰ったで明日返却のDVDを観るみたいな生活をしていたことがある。手帳に埋まる予定は早稲田松竹とか文芸坐とかシネマヴェーラとか劇場名ばかりだったし、マキノ雅弘監督「次郎長三国志」シリーズを全てフィルム上映するというもう二度と無い企画が打たれた際、その全てを観る為バイトをサボってクビになったこともある。そうして「第八部 海道一の暴れん坊(1954年作。本来のタイトルは”石松開眼”)」を観た事は永遠の思い出である。

で、どういう映画なのかと言うと、これが説明出来ない。コピー&ペースト

たまに、映画好きの人と話していて「あれ?俺うまく説明できてる…!」と思う事はある。だが実際は相手の話が上手く、俺は適切な合いの手を入れていただけ、というのが常である。なので

「あれ観た?〇〇監督の」

「え?何だったっけタイトルが…」

「〇〇が出ててさ、ウォール街のさ」

「あぁ観ました!すげぇ良かった〜」

すげぇよかった〜、しか言えないのほんとヤバすぎませんかね。という事は多い。生き恥を晒している。

 

話を戻すと、この「夕陽のギャングたち」はそんな俺を投影したかのように「?」な映画である。2時間半超えの大作だし、俳優も演技も音楽も素晴らしい(音楽は泣く子も黙るモリコーネ)。爆破シーンや銃撃戦も凄まじい規模で、それだけでも観る価値があるとは思う。だが、何となく要所要所で「変」なのだ。このシーンにそんな時間割くか?とか、謎の特殊効果が1度だけ使われるがあまり意味が無いとか、伏線も回収されてんのか何なのかわかんないし、それなのに俺は初見であまりに感動して不覚にも泣き、結局3回観たのだが、回を増すごとに「微妙な映画、なのか…?」という感想に近づいていったので観るのをやめている。

たとえば、誰に聞いても絶賛の「ショーシャンクの空に(1994)」なんかは何度観ても、いや観るたびに新しい良さを発見出来て、観た者の価値観に様々な角度から光をあてるような、学びと祈りに溢れる素晴らしい映画だと思う。

それと比較するのもどうかと思うが「夕陽のギャングたち」はそのライブ感に尽きるというか「なんかすげぇものをみた!」感が強烈で、その最初のジャンプでタッチした手跡を結局誰も消せないまま俺の今年が終わる、といった具合なのだ。もちろん同じように感動した人たちがレビューを書いたり解説したりしており、俺の文章なんかよりそちらを読む方が断然分かりやすいのだが、読めば読むほど「これ面白いの?」という感想を抱いてしまう。虫かごの中で大人しくなったセミのような、不思議な現象である。

この映画はメキシコ革命で翻弄される人々を描いており、「革命って何なんだよ」が大きなテーマなのだが、その取っつきづらいテーマを総括するような、印象深いセリフがある。

主人公のファン・ミランダは大家族を率いる山賊である。小汚く下品で読み書きも出来ない。一家で強奪を繰り返しながら生計を立てている。だがある事がきっかけで、本人の意思とは無関係に革命のヒーローへと祭り上げられていく。そんなファンのセリフ。

「俺でも革命のことなんか全てお見通しさ!それが、どうやって始まるのかも知っている。本を読む連中が、本を読まない連中―貧しい連中―のところへやって来て、「さあさあ、そろそろ変革の時が来た!!」と言う・・・だから貧しい連中が変革するんだ、な?そして本を読んでいる連中と来たら、皆が皆ピカピカ磨かれたテーブルを囲んで、ペチャクチャおしゃべりをしたり、ムシャムシャ食べてばかりいる。それで貧しい連中はどうなった?

ヤツラは皆死んだんだ!それが、あんたの言う革命だ!」

これは現代にも通じる事だと思う。働き方が変わるとか、お金の正体とか、ディープラーニングとか、あらゆる「革命」はそれが「読める」ごく少数の人たちの間だけで取り交わされ、それが「読めない」人はその雰囲気や空気感の中で踊らされているだけだ。そして思っている以上の人間が「読めない側」なのだと思う。もちろん俺もそうだ。

「こんな歴史があった」というのは本当だろうか?

「いまはこういう時代だから」というのは本当だろうか?

「世の中いずれこうなる」というのは本当だろうか?

陰謀論は信じない。でも息苦しさや、殺伐としたムードを感じるのは「文字を読めるから」じゃないかと、最近思うようになった。

入力間違いではない。「文字が読める」から「文字だけで判断するから」苦しくなる事が現代には多い。

「文章読めないバカが多すぎ」と人を蔑むことになる。たまたま日本語が読めるだけなのに。

 

3600文字も打っておいて矛盾しているようだが、言葉だけで分かり合うのは危険だと思う。もちろん、ここまで読んでくれるのは活字の読める人しかいないし、読んでくれてありがとうという気持ちは変わらない。

ただ最近、活字から離れてものを考える、言葉を抜きに人と関わりあう事が「戻ってきている」ような、そんな気がする。「そうあってほしい」という願望かもしれない。

 

「はじめに言葉ありき」ではなく、

「はじめに言葉にならない部分ありき」だと信じているし、良い映画や音楽にはその「はじめ」がある。

俺は言葉にする事をやめようとは思わない。言葉にならないものを知るために言葉があるのだから。

 

めちゃくちゃ長いくせに大事な事は一切言葉にしない(する能力が無い)ブログ、活字耐性のある方は今後ともお付き合いください。

んで、飲みに行ったとき今度はあなたの話を聞かせてください。

音楽がほんとに最高です。ションショーン♪

この映像はものすごく変な組み方ですが、ネタバレにならないので良いと思いました。

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