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見据えていたい

前回書いたように、人と話す際、その視線を斜め後ろの方にもっていく癖がある。斜め後ろと決まっているわけでは無いが、やはりどうも人と目を合わせながら喋るという事が苦手である。「鼻や胸元のあたりを見ながら喋るといいよ」というアドバイスを貰い、それに従い実践したところ、相手は頻繁に鼻を触りだしたり、適当な布でそれとなく胸を隠したりするので、ちょっとこれはどうなんだろうと思っている。

かと言って、じっと何かを凝視し続けるでもなく、視線は常に落ち着かない。いい大人なのだし、そろそろこういう弱点を克服したい。挙動不審でもなく凝視でもない、見据えたい。俺はしっかり見据えられる人間になりたい。

そんなふうにモヤモヤしていると、ある広告が目にとまった。

あ、この視線。

見据えている。

これは見据えている。何を見据えているのか?それは俺には分からないが見据えている事は確かだ。非常に羨ましい。いいな俺もこんな風に見据えられたら、、、

こういったトレーニングジム、フィットネスクラブは都内に多数存在し、その需要のぶん広告もよく見かける。今まであまり気に留めなかったが、意識して見てみると広告の中の彼らは確固たる意志を持ち何かを見据える傾向にあるようだ。

すごい。もう何も聴こえちゃいないだろう。しかし他を顧みないといった冷たい印象は無く、親近感がある。なかなか高度な見据えである。

画像が荒くて申し訳ないが、その荒さの中でも伝わる見据えが彼にはある。たとえ視線の先で飲み会終わりの大学生集団がうぇいうぇい騒いでいても彼の見据えに影響は無いだろう。

いいな。俺もあんな風に見据えていたい。何を見据えるか、それは分からない。とにかく見据えたい。見据えられればなんでもいいや。いけない。こういう思考がそもそも見据えられない人間の典型ではないか。

定まらない視線のまま拳を握り、交差点を渡る。

俺は左に伸びる横断歩道を渡ろうとした。と同時に向かいから車が右折してくる。

画力については何も言う事がありません。

まぁこういう状況である。この場合、車は俺が横断するのを認識した時点で停車し、俺の横断を待つことになる。この時も車は停車しようと速度を緩めた。

だが、俺はそれが嫌なのである。

どうしても急いでるとか渡ってる途中なら仕方ない(それでも走って渡る)。でも車の流れが滞る感じが気持ち悪くてしょうがない。

この、ドライバーと俺の間の、渡るかな、渡らないかな、曲がるかな、曲がらないかな、みたいな駆け引きおよび気の遣い合いみたいなのがすごく嫌なのだ。できればそういう事は避けたい。意味が分からなかったらごめんなさい。

そんな時、俺はどうしているかと言うと、

直進する。まっすぐ行く。

一応はっきりさせておくが、俺は左に行きたい。気持ちは左に行ってる。というか左に行かなきゃ目的地にたどり着けない。

でも直進する。まるで初めからここを直進したかったんだと言わんばかりの顔で俺は直進する。この時、車がスピードを緩めることなく曲がり切った場合に、俺はスムースな風およびささやかな平穏を感じるのである。ほっと胸をなでおろす。

この時もそんな具合で直進した。

そして俺は気づいた。

この時の俺は「完全に見据えている」と。

あこがれにあこがれた「見据え」は、すでに俺の中にあったのだ。

「あぁ、この人は曲がらないな」

ドライバーに一瞬でそう思わせるほど、俺は何かを見据えている。それは何か?と聞かれてもちょっとそれは言葉にできないっつーか、あの、見据えることの出来た人間にしか分からないよね、まぁこればっかりはね、うん。

見据えられていたので意気揚々と帰宅し、俺の見据えに乾杯。感涙にむせびながら缶ビール片手に、このブログを書くためのフィットネスクラブを調べていた時。

自分が圧倒的に劣っている気がした。

何が劣っているのか、何を見据えられていなかったのか、どうしてこうなったのか、この気持ちは一体何なのか。

それは誰にも分からないが寝不足の俺の目は完全に据わっている。

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