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ミタライに捧ぐ

前回のブログが真面目な内容だったのでふざけたものを書きたかったんですが、自分にとって重要なテーマに遭遇したので今回も一人称「僕」で行かせていただきます。

「感じる」のは個人の自由、かつヤバいかどうかは僕の主観なので後で訂正しているんですが、とにかく、こういう事、(名前が付いていないのでこういう事という表現になります)に関して、僕は真顔になってしまいます。

偏見、差別といえばそれまでなんですが、まだそこまで殺伐とはしていないというか、それでも放っておくのはまずい、深刻な問題だと考えていて、その考えを整理したいと思います。また、「何でもかんでもタブーな世の中になって息苦しいね」と思っている方の考えの一助になれば幸いです。

前回のブログでも少し触れていました。

「君はここに居るようなタイプじゃないよね」
「他でうまく楽しくやれてるんでしょう?」
「俺なんかもっとひどいんだから君なんかよりもっと」
ライブハウスで、街中で、僕はこういった言葉や態度を受け取って生きてきました。「どこにも属せない」と聞くと肌の色やセクシャリティ、職業や貧富の差を思い浮かべますが、名前のついていないこの もやもや は、いまだに自分の中に大きく横たわっています。「そんな大げさな笑」「なんの問題もないでしょ」という反応からすべては始まっている、と言っていいでしょう。

こういう発言をすると不幸自慢や苦労話のマウント合戦が始まるのがすごく嫌で、意識的に控えていたんですが、結局黙っていたって誰かが察してくれるものではないし、何も言わずに誤解され続けてきたのだからそろそろ言おう、と思い書きました。

いつまでも「こういう事」という言葉では伝わらないので、いろんな言い方をしたいと思います。

まずは「人を見た目で決めつける」という事です。

この世界に存在する差別や偏見、それが良くないという認識は日々高まっていると思います。いま現在、肌の色や五体満足でない身体について安易な指摘をする人は少ないと思います。「見た目で判断できる事を安易に指摘しない」は守られているように思えます。ですが冒頭のツイートにあった「金髪、かわいい、イケメン」はどうでしょうか。「相手が職業として売って対価を得ている」なら僕だって言います。

まだ一体なにが問題なのか分からないし、「神経質で自意識過剰な世の中になった」と呆れる方も居るかもしれません。そこで、

二つめ「そのまま言ってしまう幼稚さ」についてです。

僕はブラックミュージックと呼ばれるものが好きでよく聴くし、好きなのでその歴史も調べます。その上で、黒人と呼ばれる彼らに実際に会った場合、「肌黒いね!」とは絶対に言わない。音楽や歴史に興味がない方も、これは理解してもらえるかと思います。

少し変な言い方をしますが、なぜそのまま言わないのでしょうか?

背景が想像できるからです。音楽を聴き、歴史を学び、本人の言葉を聞いて、その背景や気持ちを想像できるからです。更に言えば「過去言われたような事を繰り返し言ってくる、つまらない人間に思われたくないから」です。

そして三つめは「ミタライ的である」。

ミタライさんと呼ばれる方は漢字で「御手洗」と書きますが、これを見て「おてあらいじゃん笑」と本人に言う人はどのくらい居るでしょうか。ほぼ居ないと思います。

少し変な言い方をしますが、なぜそのまま言わないのでしょうか?

背景が想像できるからです。その漢字を見た時に「あぁこの人は2億回くらい”おてあらいじゃーん”って言われてきただろうな」と想像できるからです。更に言えば「過去言われたような事を繰り返し言ってくる、つまらない人間に思われたくないから」です。

フェミニズムとかLGBTQとかレイシズムとか右とか左とか、いろんな名前が付いては彼ら彼女らは守られ結束できているように見えます。しかしみんなそれぞれが違った個人です。バラバラであり、考えてる事はそれぞれ違います。その人たちの尻尾を踏まないように、ひやひやしながら発言しなければならない、もう何を言っても揚げ足取られるんじゃないか、と感じている人もいるかもしれません。とにかく問題を起こさぬよう保険をかけまくったのか何なのか「LGBTに悩む青年」という意味不明なタイトルのWeb記事を見かけたこともあります。(記事を書いてる本人はたしかにLGBTに悩まされているなぁ、とは思います。)

けれど本当に大事なことは、シンプルに、「御手洗さんにおてあらいじゃーんと言わない意識」ではないでしょうか。ジャンルや組織の枠組みを超えて、いち個人としてのその人を見つめ、見たままを脊髄反射的に吐き出す幼稚さを捨てて、背景を想像する事。それがコミュニケーションの第一歩だと僕は考えます。

人間ひとりひとりに「ミタライ的な部分」は必ずあって、そこを他人から認識された時はじめてその他大勢から一歩踏み込んだ「あなたと私」がスタートするのだと思います。そしてそこを軽んじた、想像力を持たない発言や態度こそが、すべての差別や偏見の元だと僕は考えます。

「どうせそういう人間なんでしょ」なんて、誰ひとりとして思われたくないはずです。

なぜ「こういう見た目だからこういう奴だ」「女にしては」「男のくせに」「褒め言葉だから良い事だ」と、決めつけてしまうんでしょうか。

第三者用の形容詞や名詞ではなく、「俺は好き」「私は良いと思う」となぜ言えないのか。

その言葉がその人にとって何を意味するかを、なぜ想像できないのか。

決めつけてるわけじゃない、悪気はない、それらもすべて理解しています。その上で、

「いつまで幼稚なコミュニケーションをしてるんだろう」と思います。

そして、こういう意見に付いて回る、

「諸外国と比べて日本人は遅れている」というその考え方からすでに主体性が奪われているという事実に、いったいどの位の数の日本人が気づいているでしょうか。

こういったコミュニケーションの齟齬について僕は「素人がテレビのバラエティ番組の真似をしすぎた事の負債」が原因だと考えています。Twitterでは少し触れました。が、今話してもテンポが悪いので、また別の機会にまとめる事にします。

29年間、このもやもやを抱えて生きてきました。ぶつかるたびに当惑することしか出来ず、声の大きい人たちに、バラエティ番組の司会者みたいな喋りの人たちに、俺の不幸と比べてみろと言う人たちに、うやむやにされてきました。SNSの時代になり個人の声が聞こえるようになって、少しずつこのもやもやが何なのか、これから自分がどう振る舞うべきなのか、わかってきました。ちょっと時間が掛かりすぎた感もありますが。

一時期自分はフェミニストなのかなと思った時期もありましたが、僕はただ御手洗さんに「おてあらいじゃーん笑」と言ってる人、その思考が不愉快なだけであり、比較的そういう目に遭いやすい女性に感応していた、という事が分かりました。

文章にして思考を整理しようがしまいが、

「勝手に決めつけて軽んじてるんじゃねぇ」という思いは同じです。

うっかり傷つけてしまう時もあるし、一方通行では意味がない。でも、

「この人のミタライ的な部分はどこだろう」と一旦想像することは、大事にしていきたいです。

以上です。

今回の文章はこれを読んだすべての人の「ミタライ」に捧げたいと思います。

読んでくれてどうもありがとう。

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