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その猫を飼えるのか?

前回書いたとおり、8月のアタマからみるみる体調が悪化し咳が止まらなくなり最終的にじんましんが出てきてキモかったので医者に行ったら喘息だと言われて一定量の粉を吸ってキマるタイプの吸入薬を処方されめでたしめでたしとなる

筈だったのだが、一向に体調が良くならずで過去の事も未来の事も考えたくないみたいな気持ちになった事からついに予定を組む能力がゼロ男(よていをくむのうりょくがぜろお)になってしまい同時にその日楽しい事だけしかしない男(そのひたのしいことだけしかしないお)の側面が強調され、僕の中でわずかに残ったきちんとした面が「かんべんしてくれよ」と思った。

知らない人しかいないイベントに行ったり欠員が出たバンドのスタジオ練習に飛び入りしたり前から気になっていたバンドのライブを観に行ったり本を読んだり映画を観たりして楽しく過ごせた

筈だったのだが、その間も一向に体調がアレでナニしてるのでそういえば医者の指導の仕方が断定的な体育教師みたいな物言いでムカついたな!って事を理由に吸入薬をやめた。

喘息は現在の医療では完治しない病気とされているので、吸入薬を使用し続けることによってその症状をコントロールすることが目的とされている。あくまでもコントロールであり治療ではないようだ。でも冷静に考えたら「何か良くわかってないし治らないんだけど今これ効くから使っといて。治らないけどね」みたいな理屈がまかり通っている事がめちゃくちゃ怖くて、その怖さというのは子供の頃悩みに悩んでワンダースワンというゲーム機を買ってもらっていざ遊び始めた時に感じた嫌な予感であるとか、ゲームボーイcollarが出る前に発売されたゲームボーイpocket、またはiPod nanoが出る前に発売されたiPod miniが纏うある種のオーラにどことなく似ていた。我々は未来に対する選択を常に迫られている。

幸い自分の症状は呼吸困難に陥るような重いものではなかったので今となっては喘息なのかどうかも疑わしいのだが、吸入をやめてから今度は異常に寝る男と成り、昼寝をしすぎてしまった日は夜眠れなくなるといった一般社会のルールを無視しまるで眠りの外国人助っ人のようにデイもナイターもガンガン寝た。

すると今度は顔面に吹き出物が30くらい一気に出てきて、わあ。となり、眠りのペースが規格外だったことから腰もギックリ手前くらいまで痛くなってしまい、まぁ前からそうは思っていた、という前置きをしつつも僕の中の全ての側面が「まじで呪われてんのか」と叫んだ。

9月8日に誕生ッビを迎えて30歳になり、僕の住む町には顔面に歳の数だけ治りかけの吹き出物がある者にだけ抜ける勇者の剣とかは別に刺さって無く、ただひっそりと、心穏やかに1日を過ごし、夜には台風が全てを揺さぶっていった。その激しい雨風の音を聞きながら気絶するように寝た。

夜中に1度だけ起きて、考え事をした。

突然だがこれは台風の2日後の夜の動画で、なんとなく気配を感じたのでカメラを回したのだった。離れた窓から覗くと野良猫が毛づくろいをしており、目が合うとなぁぉおと鳴いて走り去って行った。

台風が過ぎていった夜中起きて考えたのは「その猫を飼えるのか?」という事であった。動画の野良猫の事ではない。

これは例えである。たとえば、アマゾンのジャングルから立ち上る黒い煙や、たとえば、香港の地下鉄で流れる血や、女性の立場や、今日死んだ人や、咳や消費税や満員電車その他について。

ちょうど、このすりガラスの向こうに居る猫みたいに、様々な問題が毎日のようにやって来る。コメントを、選択を求めてくる。SNSをやってなくたって、そうだろう。

ペットを捨てる人間に対する怒りや、可哀想という気持ちだけでは「飼い続けられない」のだ。家族なのだから。

例えばかりしてしまったがこれは「責任」の話。
もう全てを他人事にしてドロップアウト出来るほどオフラインの世界ではないし、隠し事が容易ではなくなったSNS時代に「自分にとって何が大切なのか」は世界中のあらゆる立場で問われている。

「世の中の問題について何も言えなくてすいません」と恥じ入る事は無いと僕は思う。ただ、何も言わない事が美しいとかカッコイイとはもう思わなくなった。思えなくなってしまった、と言った方が良いかもしれない。僕はもうそこにアートや芸能の崇高さを見出せない。
しかし、何でもかんでも言えば良いというものでは無い。さまざまな問題を取り上げ、それに対し具体的にどうすればいいか、または新しい解釈が示されていない意見を見ると「この人は怒りたいがために問題を探す病の人なのかな」と思ってしまう。

怒っている人を揶揄、冷笑しているのではない。「あなたがその問題について真剣に取り組むのなら、まず怒りを脇に置いてください」という事が言いたい。どんな猫も怒っている人から水を貰おうとはしない筈だから。そして冷静に考えていったら自分の水が足りなくて怒ってただけでした、なんて事もある。というより、多くの人が自分の中の何かを満たすように、怒っている。先ず、あなたが調子良くなってくれ、と思う。先ず自分をいたわるのは、恥ずかしい事では無い。「怒りの感情に流されないくらいの体調を知る」事は問題と向き合う際、必要だと思う。

自己責任論は叩かれるが、自己犠牲の精神は美談になる。自分のキャパシティを超えて世界中のあらゆる問題を叩き怒り1ヶ月後には話題にもしないことの「無責任さ」はなぜかあまり問われない。怒りを感じることは大切だと思う。ただ、進展もせず「怒りっぱなし」は非常に無責任な態度ではないだろうか。

個人で発信できる時代において”責任を負う”というのは気持ちや想いを強く持つことでは無く、自分の言葉で説明できる範囲に”線引きすること”だと考える。そしてその線を何度も引き直すことが重要だ。僕がアマゾンのジャングルの火災について責任を負えるのは「アマゾンのジャングルについて自分はあまりにも無知です、だからまず知ることから始めましょう」と言う事ぐらいだ。感情で責任はとれない。感情は責任がないからこそ感情たり得ている。いじめや虐待など、その加害者をSNSで晒して拡散する私刑行為に加担することも、しない。ただただ無責任だと思う。

実際、真剣に(真剣に。)向き合い長く付き合える事なんて、自分の手の届く範囲くらいしかない。「何も言わなくても何もしなくてもあなたは冷たい人間じゃないよ。」と言いたい人がたくさん居る。自分も言ってほしいので、たまに自分にも言っている。

「何も言わなくても何もしなくてもあなたは冷たい人間じゃないよ。」

「その猫を飼えるのか?」

僕は、「飼えないなぁ。」となるのがほとんどだ。そして「飼えるぞ」となったら怒ってる暇など無くなる。

さんざん責任について書いたが、匿名であれ実名であれ、”もうひとりの自分”を使って無責任に首を突っ込んだ代償は元の自分が払うことになる。そのギャップはいつか必ず埋めなければならない。

元の自分が責任を負える範囲を超えてしまうと結局は苦しい。

「何も言わなくても何もしなくてもあなたは冷たい人間じゃないよ。」

「その猫を飼えるのか?」

この言葉をくぐり抜けてくる問題が、自分にとって本当に大切なものなのかもしれない。

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