私は差別に反対します。

  • 2020年6月8日
  • Blog

5月30日からずっと、書いては消し、考え、書いては消し、考え、を繰り返しいつの間にか1週間以上経ってしまいました。

1年前にも、書いてるんですけど、

ミタライに捧ぐ

要約すると「目に見える情報程度で相手の人間性を決めつける幼稚なコミュニケーションをやめろ」です。ちょっと長いけど、あとでもいいから読んでほしい。

「差別・偏見」と「それについて回る気持ち」は私にとって最も重要なテーマなので、今回のアメリカの事件を受け、改めて考えた事を書きます。重複することもあると思います。

私は、差別反対です。だから、いつも、その根っこについて考えています。

 

アメリカでの人種差別、とりわけ黒人に対する差別は調べれば調べるほど、かなり複雑かつ根深い問題があり、私がこの場でまとめられるような話ではありません。というか、誰かがスッキリまとめられるなら、こんな事にはなっていない。「人間はこういう事する生き物だからね」と、10年、100年、1000年単位で、ずーっと付き合ってきた、そしてこれからも付き合って行く類の問題だと思います。

「これだけ出来上がってしまっている」という意味で、この動画はとてもわかりやすいなと思いました(喋りが速いので0.75くらいの速度で、そして理解できるまで何度も見るのがおすすめです)。

差別感情を単なる個人のヘイトではなく、巨大なシステムとして構築していくと、これだけ酷(むご)い事をとくに罪の意識も無く平然とやってしまえるのが人間です。

このシステムに取り込まれる可能性を、誰もが持っています。

「直接手を下す必要もなく、気づいたとしても、ただ見過ごし、黙っていればいいだけ」ですから。

そう考えると、日本人である我々も他人事ではないし、いじめも村八分も、規模は違えどほとんど同じ構造を持ちながら「無関心な人間を燃料にして加速する暴力装置」として、被害を大きくしています。私が事あるごとにムラ社会構造を指摘するのには、ムラがダサいとかそういうつまらない事ではなく、構造自体が危険だと思っているからです。ムラ社会、考えを改めない大人、大嫌いです。

差別、という言葉を、何度も見たり聞いたり書いたりしていて気づいたんですが、

「差別」と、言葉にした途端に、当事者感覚がすっぽり抜け落ちる感じがします。
”自分ごと”として捉えられにくくなる、というか。基本的に他人や状況に対して使う言葉だと思います。

あと、「お前を差別する!」とも言わない。
「それは差別だ!」と言われて
「ああ、あいつらは野蛮な人種だから云々、、」は有り得るが(あってはいけないが)、

「あいつらは野蛮だから差別することにする」「いま差別中だから後にして」という言い回しは、なんか変です。差別には予告も自己申告も実況報告も、無い。

そして差別される側は、差別に相当する行動を受けて初めて差別を認識します。

 

つまり、皆「差別はよくない」と言うけれど、

人間同士、その間に「差別」という言葉が顕れてからでは、何もかもが遅すぎるんですよ。

だから根っこについて考えたい。

こういう時に、やはり、せやろがいおじさんの動画は非常に分かりやすい。

特に、差別に到るまでに混同しがちな、3段階の構造を示している点。ここがとても重要だと思います。

ステレオタイプ(思い込み、イメージ、先入観)

偏見(先入観に基づいた決めつけ、イメージの固定化)

差別(偏見に基づいた行動、実行)

 

実行されてから、または実行してしまってからでは、遅すぎる。

冒頭の、私が1年前に書いた文章は主に「ステレオタイプ、偏見」の段階について書いていた、という事になります。
目に見える情報や、勝手なイメージだけを無遠慮に相手にぶつけるコミュニケーションに慣れてしまうと、「先入観や決めつけに対して自問自答し、考えを改める」というブレーキが効かなくなります。そしてイメージは固定化され、ネガティブな印象はネガティブなまま、他の可能性を考える事もなく、あっという間に差別的な行動へと流れていきます。
だから、欧米の人に金髪〜とか鼻高〜いとかもうほんといい加減やめましょう。イケメ〜ンとか美人だね〜とかも。言うなら「その髪の色すっごい好き」って、自分の好み、個人の意見として伝えましょう。テレビの司会者や雑誌の見開きみたいな言葉じゃなくて、「それ好き」にするだけで良いんです。「ネットや雑誌やテレビで良いとされてる要素を指摘すれば相手は喜ぶに決まってる」という考え方は非常に危険です。特に「自分の好みとして伝えられない癖がつき、自己、個人が失われてしまう」という点で。

人権を尊重するならまずあなた自身を、そしてあなた自身の「好き」という感覚を尊重してほしい。それが他人の在り方を尊重する事に繋がるから。

少し話が逸れました。

 

先の動画で言及されている”ステレオタイプ脅威”もたしかに危険ではあるけれど、「先入観や思い込みをひっくり返される感動」というものも経験上、否定できません。
たとえば、「女だから」と抑圧される事もあるが、「女だから」こそ感動を生み、勇気を与える事もできる。これは「若いから」「真面目そうだから」など、様々な事に言えると思います。それを上手く活用している人も居れば、「だからダメなんだ」という理由づけに活用する人も居る。

ステレオタイプの段階は、その捉え方次第でパワーにも足かせにもなる。と私は思います。

 

では偏見の段階はどうでしょうか。もちろん偏見がひっくり返る感動もあります。それはより大きな感動かもしれません。ただ一度固定化されてしまった価値観は数回の”例外”ごときでは揺らぎません。偏見といえば、ネットで見かける「私はこう思う(偏見)」がありますが、自己の俯瞰によって自覚できている場合は、ステレオタイプ(先入観)の段階と同義である、と考えます。

私は、思考の限界が、偏見を生む。と考えています。他の可能性を考慮できずに、考えを固定化してしまう。「どうせ〇〇だろ」と決めつける。愚かな思考です。

そしてこれが私の一番言いたい事なのですが、

私たちはいとも簡単に愚かな思考をしてしまうのです。

愚かな思考なんて、賢い人はしない。知性があれば、優しければ、しない。そんなの嘘です。

たとえば、お腹が空いたら不機嫌になる人がいます。普段はおおらかで優しいのに、ただ空腹だというだけで、他の可能性を考慮できない思考をしてしまいます。

生きていれば、最低最悪でクソみたいな、燃やしてしまいたい日があると思います。
そんな日に人種差別について考えられますか。物事の背景を想像し、自分の考えを改めることができますか。私には自信がありません。

空腹で不機嫌になる場合、1日3回、3食ぶん、偏見を持ちかねないわけです。腹が減ったら、差別するかもしれない。これは暴論でしょうか。

 

私は「人の知性や理性は絶えず変動する、という認識の無さ」が、

「私は愚かではない」という慢心や当事者意識の欠如を生み、

「自分は差別しないに決まっている」という根源的な偏見(思い込み)を作り上げるのだと考えてます。これは、多くの人が「差別反対」を訴えているのに差別が横行している原因のひとつです。

 

大切なものが壊れたり、誰かが死んだり、すごく眠かったり、どこか痛かったり、なんとなく不安だったり、
とてつもない事でも、ささいな事でも、私たちは簡単に愚かになります。

思考力は身体の影響を大きく受けます。個人的には「体力は思考力」とさえ思っています。メンタルの問題はフィジカルの問題です。もちろん”環境”も大きく影響しますが。

黒人差別のもっとも忌まわしい点は、その体力や環境の余裕の無さを構造的に作り出している点です。満足な教育も受けられず、才能に対し平等なチャンスを与えられず、経済的に困窮し、それが思考力や判断力を奪う。一部の人間が過ちを犯してしまう。そこで起きた事件を黒人が愚かであるイメージとして切り取り、報道し反響させ、さらに偏見を固定化させ、システムを強固にする。最低で最悪な循環です。この循環構造が長い時間をかけ、罪の意識もなく無自覚に差別に加担する人間を製造し続けてきました。それは今も続いています。

 

生きている限り、先入観や思い込みからは逃れられません。その先入観が大きな学びになる事もありますし、「めちゃくちゃ感動した」の前には「どうせ〇〇なんでしょ」という思い込みがあったりします。

そして私たちは簡単に愚かな思考をします。簡単に、無自覚に、差別に加担します。不安定な生き物です。

人生のアップダウンには逆らえません。昨日は体調最悪でした。終わってました。自分ひとりの意思の力などたかが知れています。

そんな私の不安定さを補完しているのは、他の誰かなのです。

私に考える余裕が無い時、他の誰かが考えてくれるから社会が成り立っている。

自分の愚かさをカバーしているのは、いつだって他の誰かです。そして誰かの愚かさをカバーしているのも自分。

 

他者の存在を認めることは、綺麗事でも何でもなく、生きていく為に必要な力です。

「こんな生き方もあるんだ」と救われる事があります。「こんなの有りか」と笑ってしまう事があります。

 

「こうでなきゃいけない」と自ら選択肢を減らして、その価値観の枠から脱落してしまえば、先にあるのは死のみです。

その「こうでなきゃいけない」を減らし、他者を認める事で、他の可能性を認識する事で、自分を生かす。

 

同種を繁栄させる為に、他種を認めない構造を生み出したのが、白人至上主義です。それも人を生かす工夫かもしれない。でもそれで生かされるのはあらかじめ決められた人種だけです。それは、繁栄でしょうか。

 

私は、差別反対です。

偏見を捨てられない時、人は、今の自分を守る為に偏見にしがみつくのだと思います。「こういうものだ」と信じている、そんな今の自分が、自分でなくなってしまうようで、他者に侵食されそうで、怖くて、違う在り方を認められないのだと思います。

けれど、人は変わります。

時代も変わります。

どうなってるかわからない「未来の自分」を守る力になるのは、

「今の自分と違う在り方をどれだけ認められたか」

ではないでしょうか。

 

もちろん、私には嫌いな人も居ます。許せない事もある。

あの、首に膝を押し付けていた白人警官は絶対に許せません。だからといって白人がクソだとか警官がクソだとか、そういう考えにはなりません。あの警官個人を絶対に許さない、という考えです。それも、存在を認めるという事だと思います。存在を認めるとは、決して好意的な意味合いだけではありません。安易なカテゴライズをせず、偏見を持たず、はっきり個人にNOを突きつける事も、必要だと思います。

 

私は、差別反対です。

その差別を生む、偏見だらけの思考に抗います。

 

でもそんな堅苦しい考え方じゃなくて、

人間同士、個人の「好き嫌い」を伝え合って生きていけばいいと思っています。

 

あなた自身の「好き嫌い」を尊重してほしい。テレビが言ってるからじゃなくて、SNSが言ってるからじゃなくて、社会じゃなくて、世間じゃなくて、ジャンルじゃなくて、傾向じゃなくて、政治じゃなくて、まずは

あなた自身の「好き嫌い」を尊重してほしい。

そして「絶対に関わりたくないが、まぁ嫌いじゃないかな」というものが増えるほど、人生は面白くなる。と私は思います。

いろんな建前、大義名分を抜きに、自分や他人が今何をしているのか、これから何をしようとしているのか、よく観察し、問いかけながら、生きて行きたい。

 

最後になりますが、

 

Twitterでもシェアした、こちらの記事はアメリカの人種差別を理解するのにとても役立ちました。支援先など、個人が今できる事を紹介しているのも素晴らしいです。ぜひ読んでみてください。

 

この問題の最も恐ろしいところは、今のSNSやメディアの実態、ここ4年間のアメリカの政府・大統領の活動を見ると、こう言った事件をみんな明日には忘れていること。日本では正直、恐らくほとんどの人は気にしていない。テレビやTwitterでちょっとニュースを見たり、「怖いな」ぐらいで終わると思う。

そして色んな著名人、組織、ブランドからコメントが出ている。ただ、今までの歴史上、ここ数年間の人の行動(自分含め)を見ると、これで終わる。また次の人種差別とは関係ないスキャンダルやトピックに行ってしまう。自分の直接関係なさそうなので結局気にしなくなる。ただ今アメリカにいる黒人はそう出来ない。個人的な願いは、これをきっかけにでも良いので少しでもこの問題について気にする、そして何かしらのアクションをとること。

とあるように、この問題は「何度も忘れられてきた事」。もう9日経って、すっかり忘れてる人もいるかもしれない。

でもこの問題は人種や国を問わず、人間が生きていく上で最大の課題を孕んでいる。と私は思う。

違う立場への想像力。自分を疑う事。これが無ければ簡単に、あっという間に、システムに取り込まれる。世間の顔色を窺って、自分の声を殺して、手を下さずに誰かを殺す。

そんなことがあってはいけない。

だからこそ何度でも、「自分ごと」として考えられる書き方で、これからも言及していきます。

 

以上です。読んでくれてありがとう。

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ごあいさつ

いいねやフォローやコメントなど、SNS的な構造と無縁の場所がほしいと思い、2017年の終わりごろに始めたホームページです。 途中Twitterがメインの時期もありましたが2020年、ゆっくり考える機会に恵まれたので基本に立ち返り、更新再開しました。 いつも感想やメッセージをありがとうございます。 気が向いたらまた来てください。

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